一橋大学社会学研究科教授 田崎 宣義

国立キャンパスには屋内外にたくさんの銅像やレリーフがある。中でも私が親しみを覚えるのは東キャンパスの正門と本館の間にある堀光亀先生の胸像である。この像は台座にのった先生の目線が私とほぼ同じ高さにあって不自然さがないし、立派なカイゼルひげと優しい眼差しが印象的で何ともいえない親しみを感じる。場所も文句なく、いかにも国立移転時の専門部主事にふさわしい。朝には正門から教室に急ぐ学生たちを迎え、夕には家路を急ぐ学生たちに「ご苦労さん」と声をかける先生の優しさと厳しさが温かく感じ取れる。全一橋人の先陣として新天地・国立に乗り込んだ専門部生たちの回想『国立・あの頃』を読むと堀先生が学生たちに慕われていた様子が彷彿とする。そんなことも私には親しみを覚える理由になっている。籠城事件で学生を叱咤激励したというエピソードは堀先生と学生との絆の尋常でない強さを物語っているが、この銅像を見ていると妙に納得できるから不思議だ。

もちろん、どの銅像やレリーフにも教え子たちの敬慕の情が山と聳えているのだろう。それにしてもキャンパス内の数ある像の中で私にとって最も謎めいていたのは矢野二郎先生像であった。

この像は今でこそ鬱蒼とした緑に囲まれて、よほど近づかなければ全容を目にすることができない。けれども以前は兼松講堂の中からはもちろん、図書館にむかう途上でも本館に出入りする時にも高く聳える姿が目に飛び込んできたに違いない。当時の本館は2階以上が教室で、図書館には教官の研究室とゼミ室があったから、朝な夕なに学生たちは矢野二郎先生の像を仰いだはずだし、丸便や食堂、グラウンド方面から正門に向かう時にも目に入っただろう。そういう場所に天を衝いて立っている。

それにしても高い台座もその上の全身像も威容そのものである。おまけに国立移転後早々に行われた除幕式の記録映画まで残っている。誰がどのような思いを込めてこの像を建てたのか。それを知りたいと思っていたが『本邦商業教育ノ先覚 矢野二郎先生記念事業記録』なる冊子でそれが叶ったときは長年のつかえが下りた気がした。

像の除幕式は1931(昭和6)年5月10日、日本は大恐慌にあえぎ、4か月後には満州事変である。映画には翌年3月に血盟団事件で犠牲となる団琢磨の献花の姿もある。まさに不景気の最中、政情騒然となる直前だ。

冊子によれば、除幕式前年の昭和5年3月15日に開かれた如水会役員会で矢野二郎先生の記念事業に取り組むことが決まった、とある。昭和5年は9月に本学の移転が完了する年である。神田一ツ橋の地を去るのを機に、如水会は矢野先生の記念事業に取り組むことを決めたのである。その理由は次の矢野記念事業趣意書に詳しい。

吾等如水會員ノ揺籃タル一橋ノ校舎ハ、我國國會開設ノ當初其建築費ノ支出ニツキ帝國議會ノ協賛ヲ經タルモノニシテ、我國官立學校中其建築費豫算ノ議會ノ協賛ヲ得タルモノハ、本校ヲ以テ嚆矢トス。此問題ニ關シ當時先生ト當局有司トノ間ニ多少ノ葛藤アリタルモノノ如クニシテ、幸ニ先生ノ意ノ如ク解決シタリト傳フル一箇ノ記念物ナリ。我等ハ一橋ノ學域ト其建造物トヲ見ルコト、恰モ先生ノ遺跡ヲ見ルガ如ク、先生ノ記功章トシテ常ニ先生ヲ追憶スルノ資ニ供シタリ。而シテ其建築物ハ大震火災ノ爲メニ既二潰滅シ、學堂ハ今秋ヲ期シテ全部東京ノ西郊「國立」ノ新境ニ移ラントス。鳴呼先生逝カレテ既ニ二十有五年、世態ノ推移、人情ノ変遷、茫トシテ夢ノ如ク先生勲功ノ歴史モ亦漸ク世ニ忘レラレントス、洵ニ慨歎ニ勝ヘザルナリ。

如水會ハ此ニ母校ノ移轉ヲ機トシ、本會主催ノ下ニ故矢野二郎先生ノ銅像ヲ國立ノ新學園ニ建設シ以テ後日此ニ遊學スル者ト共ニ永遠ニ先生ノ偉績ヲ記念セント欲ス。矢野先生知音ノ大方諸賢竝ニ全如水會員諸氏、幸ニ此擧ニ賛成シテ援助ヲ與ヘラレンコトヲ 懇請ス。

昭和五年六月

帝国議会の予算で最初に建てられた官立学校校舎をはじめ、本学の礎を固められた矢野二郎先生を追憶できるものの多かった神田の地と違い、国立には先生を偲ぶ縁がない。加えて先生没後25年もたち先生の勲功もようやく世に忘れられかけている。それを放置する訳にはいかない。先生の像を国立の新天地に建て、ここに学ぶ後輩諸君に先生の勲功を長く伝えたい。そういう思いで像が建てられたのである。私はこれを知って大いに納得し、また先輩の先生を慕い敬う情の濃やかさに感じ入った。

如水会の呼びかけに応じた賛助員は個人48名に加え、神戸・大阪の両商大学長、山口高商はじめ19高商校長、全国商業学校長協議会役員、蔵前工業会理事長、東京外国語学校長ら、さらに一般賛助員として各地の商業学校職員学生や商業会議所関係者ら多数が名を連ねている。募金はまさに全国的な運動となって広がり1946名から約6万7千円が寄せられた。恐慌まっただ中のことだから文字通りの偉業である。これに復興補助金や如水会からの出金も加えた総額7万7千円で記念事業が行われ、銅像建立の残金3万6千円余で如水会館脇に矢野記念館が建てられた。

銅像作者の帝国美術院審査員(当時)堀進二は渋澤榮一翁寿像の作者でもある。台座と矢野記念館の設計は本館・図書館・専門部本館を設計した文部省技官中根蕃である。台座に巻かれたロンバルディア・バンドもそうだったか、と大いに納得がいった。

さてここまで長々と書いたが、銅像は福嶋先生が推察された通り庭園の中に建てられており「永久保存及清掃費」として金1万円也を百年間の信託預金にして後を後輩に託している。兼松講堂建設の寄付金が50万円だから、この1万円は今なら間違いなく億を超える額になるだろう。

庭園を写真で見ると台座に向かってなだらかに土盛りがされており、点々と庭石が配されている。今は庭石こそ散逸を免れているようだが、土盛りが流れ去って台座の基底部が剥き出しになり、園路も亡失した。戦中戦後の混乱を思えばやむを得ない気もするが、来年は像建立80周年である。未曾有の不景気の中で諸先輩や全国から寄せられた敬慕の情と「永久保存及清掃費」金1万円也を思うと、このまま放置することに些か後ろめたい気もする。像建立の経緯を知って、整備を検討してもよいのではないかという方向に傾いているところである。

矢野二郎先生像を囲む昔の光景

矢野二郎先生像を囲む昔の光景

矢野二郎先生像を囲む現在の景観

矢野二郎先生像を囲む現在の景観