東京農工大学大学院 福嶋司

今、日本の自然は確実に破壊が進んでいる。それは、日本の自然の1構成員であったニホンジカ(エゾシカを含む)が爆発的に増加し、自然の植物が採食されることで多くの植物種が絶滅の危機に瀕しているからである。昔は人とシカとは共に生活しながら、大きな被害をもたらすことはなかった。それは、一つにはニホンジカが重要な食料資源であり、ある程度の個体が捕獲されて適度な数が保たれていたことで被害が発生する状況になかったことにある。しかし、戦後、ニホンジカの急激な減少に危機感を抱いた政府はニホンジカ保護する法律を作り、メスジカの捕獲を禁止した。このことが功を奏し、個体数は確実に増加に転じた。しかし、その後も増加が続いてきたが法律の再検討が行われなかったため、個体数増加が続き、現在の数にまで増加したと言われている。そして、今である。ニホンジカの頭数を減らすために、食物連鎖の頂点に位置するオオカミを放せという議論は暴言としても、ニホンジカを狩猟するハンターは高齢化が進み、その数も急激に減少している。各地で被害が報告されながらも今となっては打つ手がないと言うのが実情である。すでに、ニホンジカの植物に対する害「食害」については、これまでもさまざまな機会に紹介されているので、心配されている方も多いと思う。では、日本全域のどこで被害が大きいのか、ニホンジカが日本の植生や植物にどれほどの害を与えているのかとなると、その実態はあいまいで、実態を示す明らかな資料がなかった。そこで、その実態を明らかにするために植生学会がその調査に乗り出した。植生学会では、大学や研究機関の植生研究者、環境調査会社の植生研究者、学生等の学会の会員が中心になって全国スケールで現地調査を行い、このほど植生被害の実態をまとめた。この調査結果は一部の紙面で報道されたが、紹介する機会をいただいたので調査結果の概要を紹介したいと思う。

結果の紹介に入る前に、今回の調査を全国的な規模で行った植生学会について簡単に紹介したい。植生学会は、植生の研究者があつまり、任意的な団体として活動してきた「群落談話会」を発展させる形で1994年に「植生学会」として設立された学会である。この学会は「植生に関する基礎的、応用的な研究の進歩と会員の相互の交流を図ること」を目的としており、現在、会員は個人会員556名、団体会員13団体、賛助会員1団体である。会員は全国に散らばっており、日本における唯一の植生研究専門家集団と言っても過言ではない。このことが今回の調査には大変好都合であった。学会には社会への研究活動の紹介や啓発活動を行う企画委員会があり、その委員会(部会長 村上雄秀 国際生態学センター主任研究員)が中心になって、このニホンジカ被害の全国調査を計画・実施した。

学会ではニホンジカ(エゾシカを含む)植生への影響について、統一基準で全国網羅的に実態把握と評価をするために詳細な内容を記載する調査アンケート用紙とそのための記入マニュアルを作成し、2009年から2010年の2年間で実施した。この計画に対しては、学会員、学会員以外の植生・植物研究者を含む154名の協力があり、北海道から鹿児島県までの46都道府県から1155件のアンケート回答が寄せられた。シカ影響が全国各地で拡大・深刻化しているにもかかわらず、これまでの報告の多くが特定の場所や県レベルでの地域的な報告であり、その実態が全国的に把握されたことがなかった。今回の調査結果はそれを全国スケールで把握した最初のものである。さらに、植生へのシカの影響調査は、生態系や生物多様性の保全のためにきわめて重要であるが、これまではシカからの観点からの情報が多く、生態系や生物多様性の基本となる植物、植生のシカ影響の報告がきわめて少なかった。このことに対しても、この調査は重要な情報を提供することになった。この調査は被害が認められる場所だけでなく、被害の認められていない地域も調査していることにも特徴があり、これを基礎に、今後のシカ影響の動向を追跡調査するための比較のベースができたことになる。また、このアンケートが専門家による調査結果であり、そのアンケート項目の中に含まれる多くの情報は学問的な内容が詳細に記入されていることから、この情報はシカと植生に関する重要な研究資源となり得るという特色ももっている。

調査結果の解析は今後進められていくが、解析の第一段階として、「ニホンジカによる日本の植生への影響」―シカ影響アンケート調査(2009~2010)―として植生学会のHPに「シカ影響度マップ」(5km四方内での情報を1単位)と共に公表されている。是非、HPをご覧頂きたいが、ここでは、HPに掲載されている結果の要点を紹介しよう。

1.解答のあった地点の1/5で深刻な被害が発生している。

有毒でシカが食べない不嗜好植物を除いて、草本や低木が著しく減少したり、土壌が流れ出すほどの影響を示す被害程度の「強」または「激」の場所は全国の北海道から九州までの8地方すべてで見られ、そこではすでに回復不可能なまでに植生が衰退している。

2.太平洋側で影響が深刻

シカによる植生の影響は知床など北海道東部から、屋久島や五島列島に至るまで、全国に広がっているが、関東地方以西の太平洋側山地では重度の影響が顕在化している。

3.影響範囲はシカの分布域全体に及ぶ

1978年、2003年に環境省(環境庁)によって、各県内でのシカの分布域調査が実施されているが、分布域内にはシカの影響が確認されている。加えて、シカの分布が確認されていなかった長野県北部、富山県でもシカの影響が確認されている。

4.影響は海岸から高山まで

シカの影響は北海道東部、宮城県の牡鹿半島、伊豆半島、紀伊半島東部三重県の海岸付近にも被害が現れており、一方で南アルプスの高山帯や富士山の森林限界付近にまで被害が見られ、高度的に幅広い範囲に及んでいる。

5.あらゆるタイプの植生に影響

被害は森林から草原まで、あらゆる植生タイプに被害が及んでいた。特に、自然林に対する影響が大きく、調査された18~32%の森林で下生が著しく減少したり、完全に消滅していた。また、高層湿原や海岸植物群落なと、特殊で脆弱生が高く、希少な自然植生にも被害が及んでいる。

6.日本の生物多様性への脅威

日本全国の多くの森林や草原はシカによる過度の影響によって、その姿を変えつつある。シカの過度の影響は、農林業被害を引き起こすだけでなく、自然林の世代交代を妨げ、土壌の流亡を引き起こし、植物やそれに依存する昆虫など多くの生物種の減少や地域的な絶滅を招くことになり、日本の生態系や生物多様性の保全に重大な脅威となる。

概要であるが、掲載された被害マップをご覧頂くと、いかに、その影響が広い範囲に及んでいるかが一目瞭然である。一刻も早いシカのコントロールが必要であるかがわかる。

回の植生学会による調査は、全国レベルでの「ある時間断面でのシカによる植生への影響の広がり」を記録したものである。この調査の最も大きな成果は、今回の調査がこれまでさまざまな形で報告されてきた「個人の記録」を、我が国初めて植生の専門家による全国調査により「社会の記録」へと展開できたことである。調査結果の解析は今後も続くし、情報の不足している地域では今後も資料収集を進めることになる。また、植生学会としては、今回生み出されたデータベースを基に、10年程度の後に今回と同様な手法で再度調査を実施することで、植生へのシカの影響の動向を継続的に把握していくことも予定している。もちろん、日本の自然を保護し、復元することで「国民の緑環境を健全なものにしていく」ことを目指す植生学会の活動は今後も活発に続くことになる。