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令和2年6月30日

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●令和2年7月休日作業:7月18日(土)中止

現在も大学の授業は全てオンラインで行われ、構内への立ち入禁止、練習・試合等の部活動や諸会合の自粛も継続されています。7月に予定されていた休日作業も残念ながら中止といたします。

 
 

●国立探訪

緊急事態宣言の全面的な撤回あるものの、この先の道筋がすっかり晴れたとは言えず、コロナの重しはまだ我々の身近なそこここに在る気がいたしますが、そんな日々のひとときを、国立の昔を留める名残と人々の歩みの様子を眺め 心に風を送るのは如何でしょうか。飯塚義則副会長のガイドで散策を始めましょう:

 
 

国立市の湧水、自然と歴史を訪ねる
−立川崖線と青柳崖線に沿ってー

新型コロナウィルス感染症拡大防止策に関係する諸制限が解除されましたが、先行きの不透明感はなかなか払拭できず、6月の予定されていた作業は、5月に続き、中止を余儀なくされました。誰もが安心して活動できる日が一日も早く来ることを願いつつ、時を過ごす毎日です。皆さんはいかがでしょうか?さて、このような状況ではありますが、学生時代に戻り、国立市の自然と歴史探訪で気分転換を図りたいと思います。探訪は谷保天満宮から矢川緑地保全地域へとおもに「はけ下の道」を辿ります。

1. 国立市の地形と地質

左の地図をご覧下さい。地図は国土地理院「デジタル標高地形図小平市付近」に手を加えたものです。市域は北から南へと標高を落し、北東方向には国分寺崖線が、南には立川崖線、青柳崖線が走っています。青柳崖線は多摩川の沖積地と青柳面を、立川崖線は青柳面と立川面を、国分寺崖線は立川面と武蔵野面を分ける段丘崖です。「面」とは段丘面のことです。各々の段丘面は長い年月をかけ、多摩川による侵食作用と隆起によって形成され、現在の姿になりました。

各面の地質について見てみると、それぞれの段丘面は表面を関東ローム層で覆われ、その下に、多摩川の河川堆積物である礫層が存在します。青柳面を覆うローム層は青柳ローム層(上部立川ローム層)、礫層は青柳礫層、立川面は立川ローム層、礫層は立川礫層、また、武蔵野面ではその下にもっと古い時期に形成された武蔵野ローム層が堆積し、その下の礫層は武蔵野礫層と呼ばれています。多摩川の沖積地には関東ローム層は存在しません。

国立市の位置する「面」は立川面、青柳面、多摩川の沖積地です。市域の南に位置する崖線の下からは地下水が湧き、関東ローム層を浸透した雨水が、立川礫層や青柳礫層に蓄積され、それが湧き出すことによるものです。一方、市域の北部には湧水はなく、水に乏しい地域となっています。このため、歴史的に現在の市域となる「谷保村」の中心となったのは、豊富な湧水に恵まれた南の地域でした。北部は地下水位も低く武蔵野の森林や野原が支配する地域で、この地域が市域の中心となっていくのは大正12年の国立駅開業以降で、東京商科大学の移転も昭和2年のことでした。

2. 谷保天満宮


国立駅から大学通りをほぼ真南に30分程進み、甲州街道を渡ると、関東地方最古の天満宮、谷保天満宮の鬱蒼とした森が目の前に現れます。この森は比高差6から7メートルの立川崖線上に位置し、鳥居をくぐり、崖線を下ると崖下から滾々と水が湧き出ているのを目にすることができます。豊富な湧水は、境内から流れ出た後、府中用水の分水である谷保用水と一緒になり、付近の水田は無論のこと、府中市内の水田をも潤してきました。天満宮から離れると、昔ながらの田のある風景が目の前に広がっています。

谷保天満宮は、延喜3年(903年)、菅原道真の三男、菅原道武が父を祀る廟を創建したことに始まり、その後、道武の末裔、津戸三郎為守が養和元年(1181年)に廟を現在の地に移したといわれています。神社の本殿・拝殿は威厳に満ちた江戸時代中・後期建築の建物で、国指定重要文化財の「木造獅子狛犬」や後宇多天皇勅額「天満宮」などの宝物が、宝物殿には所蔵されています。その様子は、『江戸名所図会』にも描かれ、挿絵には「社内に常磐の清水と称する霊水あり」と書かれています。当時の境内の様子はスギ(一部マツ)を主体とする鬱蒼とした森が広がっていますが、現在は、ご存知のようにケヤキ、ムクノキ、エノキ、シイなどが優先する森となっています。甲州街道も今と異なり天満宮の南側を通っていました。

3. 谷保の城山

谷保天満宮から青柳崖線に沿って10分程歩くと、やはり鬱蒼とした森に覆われた「谷保の城山(じょうやま)」と呼ばれる城山公園です。城山は青柳段丘の南端に位置し、比高差8メートルほどの段丘崖を利用して作られた中世の館(三田氏館)跡で、東京都の史跡にも指定されています。土塁と空堀により方形に曲輪(くるわ:屋敷域)がつくられた「方形館」で、十四世紀以降の築造といわれています。館の主は、現在この地に居住する三田氏所蔵の古図によると、前述の「津戸三郎為守」といわれていますが、定説はありません。谷保天満宮の宮司は津戸姓で、菅原道真の子孫として、代々この地域の有力者であったと考えられ、津戸氏との関係を考えるべきであろうと個人的には思います。

歴史的遺産である館跡と一体となって、城山公園には、春はニリンソウ、夏はキツネノカミソリなどの花々が咲き、また湧水による池も整備されていて、小規模ですが豊かで美しい環境が維持されています。都会の喧噪とはかけ離れた森閑とした別世界があり、今年の春も群生するニリンソウ、ヤブデマリの美しい白い花などが、芽吹きの季節の公園の美しさを引き立てていました。また、城山公園には、青柳にあった江戸時代後期の建築とされる「旧柳澤住宅」が、移築復元されています。柳澤家は明治期から昭和初期にかけて養蚕とともに漬物業を営む農家で、昔の生活道具、農機具などが保存され、養蚕農家の名残も残しています。その前の田圃に、菜の花が辺り一面を黄色に彩り、長閑な春の気分を醸し出していました。皆さんも春に一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

4. 古刹南養寺

城山公園から暫く歩くと南養寺の坂で、その建つ段丘面には、青柳崖線の作る「南養寺の谷」が侵入し、谷の周囲にはケヤキなどを中心にした素晴らしい植生を見ることができます。安永9年(1780年)に建築という薬医門の山門を入ると、南養寺の境内には、文化元年(1804年)建築の禅宗の客殿型様式の本堂、享保3年(1718年)建立の藤井山圓成院の観音堂を寛政5年(1793年)に移築した大悲殿、安永6年(1777年)鋳造の梵鐘のある鐘楼などの江戸時代の建物を見ることができます。
本堂の南には、天保年間中期(1836年から1839年頃)の作庭といわれる300坪余りの枯山水様式の庭園があり、禅宗の自然観を表現するとされるその景観は、一見の価値があります。また、境内には享保5年建之と記された庚申塔など庶民信仰に由来するものもあり、この寺の古刹たる所以と土地の人々が寺に寄せてきた信仰の深さをあらためて感じさせられる一時でした。

因みに、南養寺は臨済宗建長寺派、立川市の普済寺の末寺で、江戸時代には御朱印地10石を与えられた由緒ある寺です。14世紀半ば、普済寺の開山でもある鎌倉から南北朝時代にかけての名僧、建長寺三十七世物外可什大和尚により開山され、開基は、立川氏の立川入道宗成と伝えられています。普済寺は多摩地区きっての名刹の一つで、今の立川市柴崎町を本拠にした豪族、立川氏の館跡に建ち、境内には堀や土塁の跡を見ることができます。皆さんも一度訪れて見てはいかがでしょうか。

5. ママ下湧水

南養寺から歩いて10分程でママ下湧水です。ママとは地元の言葉で崖下を意味し、青柳段丘の崖下の湧水群のことです。湧出量も多く、その周囲には水田を中心に、田園風景が広がり、豊かな緑地が残されています。南養寺の坂を下り、府中用水の分水の谷保分水に沿って暫く歩くと、ママ下湧水からの清水川、谷保分水、矢川が合流する矢川おんだしです。ママ下湧水は、そこから程近くにあり、矢川は、立川崖線の崖下から湧き出る水を集め、立川市、国立市、府中市を流れる全長約1.5キロメートルの小さな川です。
ママ下湧水は、木々がこんもりと繁る崖下にあり、湧き出た水は、前述の清水川の清流となって、崖線に沿って東へ流れています。湧水の付近にはその水を引き込んだ湿地もあり、こども連れの家族も集う国立市民憩いの場所となっています。
遊歩道を戻り、清水川に沿って都道20号線の下を通り、湧水ポイントを確認しながら進むと、矢川の谷に出ます。立川段丘に小谷を刻み、流れ下って来た矢川はここで清水川と並行し、前述の矢川おんだしで一緒になります。近くの林の中からの豊富な湧水とあいまって、矢川の清流とその刻む谷の景観の美しさは格別で、暫くそこに佇み心の癒される静かな一時を過ごしました。その後、矢川の流れに従って青柳崖線の坂を上りきると、矢川がその中を流れる滝乃川学園の構内に出ます。

6. 滝乃川学園そして渋沢栄一

滝乃川学園は、ご存知のように、プロテスタント系の社会福祉法人です。日本最古の知的障害者の養護施設で、明治24年(1891年)、立教女学校教頭の石井亮一により、現在の北区滝野川に少女の孤児を対象とした保護施設として創立されました。その後、巣鴨に移転した大正9年(1920年)3月、園児の火遊びによる火災で存亡の危機に立たされました。しかし、亮一の妻、筆子の教え子であった貞明皇后を始めとする支援者たちの尽力により、同年財団法人としての認可を受け、翌年、渋沢栄一が理事長に就任し、昭和3年(1928年)には大隈重信の別荘予定地であった現在の地に再移転しました。

日本資本主義の生みの親とされる渋沢栄一は社会福祉慈善事業にも深く携わり、その後亡くなる1930年まで理事長を務め、学園の運営に力を尽くしました。数多くの事業や企業の設立に携わり、近代日本の経済発展の基礎を築いたこの偉大なる指導者は、それによって自らを利することはなく、世の中の動きに対して常に公平な目を持ち、日本の社会の発展のために身を賭してやみませんでした。母校についても同様で、商法講習所の創立から東京商科大学への昇格に至るまで、その有意を認め諸々の局面で支援の手を差し伸べ続けました。嘗て、国立・国分寺支部の皆さんと渋沢栄一の生地、埼玉県深谷市にその生家と足跡を訪ねたことがありましたが、一度目にしたいと思っていた学園の門の前に立ち、あらためて渋沢栄一の人となりを思い、尊敬の念を深めた次第です。

7. 五智如来の祠

滝乃川学園から矢川緑地保全地域に向かうと、矢川と甲州街道の交差するところに「五智如来」の祠が建っています。祠の中には、国立市登録有形文化財に指定されている五智如来の石仏と文字塔が収められています。国立市教育委員会によれば、この石仏は多摩地域では他には八王子と町田のみに見られる稀少なもので、文字塔は宝暦10年(1760年)2月建立とのことです。因みに、五智如来とは密教で言う金剛界五仏をいい、大日如来を中心とした東西南北の阿閦如来、阿弥陀如来、宝生如来、不空成就如来(または釈迦如来)で、信仰そのものは庶民的なもので、例えば中心となる大日如来は万物を慈しみ五穀豊穣の功徳を表しているとのことです。仏教の教理の理解は難しく、挑戦をしますが、そのためには多くの時間を要し容易ではありません。皆さんはいかがでしょうか。

8. 矢川緑地保全地域

今回の探訪もいよいよ最後です。五智如来の祠から矢川に沿い20分程歩くと、立川市との境に位置する矢川緑地保存地域(矢川緑地)です。川沿いには昔ながらの農家の佇まいがあり、そこには収穫した野菜などを洗うための洗い場や川岸を緑が覆う護岸用の石積を見ることができます。

矢川緑地には矢川の清流が流れ、その源頭部は緑地よりさらに西の立川駅の南、錦町の立川段丘の崖下にあります。湧水は暗渠となって東流し、矢川緑地でその姿を現わします。矢川緑地は幅2メートルほどの矢川に沿う約2.1ヘクタールの小規模な緑地で、北側にケヤキやコナラ、クヌギなどの樹木に代表される武蔵野の森が、南側には湿地が広がっています。北側は、比高は殆どありませんが、少し高くなっていて立川段丘です。立川段丘は立川市柴崎町に向かって徐々に高さを増し、柴崎体育館の辺りで青柳崖線と一緒になります。緑地内には清流に育つナガエミクリやヤナギモなどの水生植物やザリガニやタニシ、アメンボなどの水生生物、カルガモやコサギなどの野鳥が見られ、素晴らしい自然緑地が形成されています。そこでは、近所の幼稚園の子ども達が楽しそうに遊ぶ姿があり、子ども達が健やかに育つための緑と自然の大切さをあらためて思い知らされました。

緑地内の林を離れると、木道が敷かれた湿地帯です。例年は水の少ない湿地帯ですが、今年は木道の周囲は水を満々と湛えて沼となっていました。そこではボランティアの人達による湿地回復のための活動が行われています。しかし、湿地内にはハンノキの侵入も急速に進んでいて、そこの植生の遷移が気になるところです。

9. 終章

駆け足の国立市の自然と歴史探訪も最後となりました。人々の生活、そしてその結果形成される文化や歴史は水を抜きにしては考えられません。国立市においても、人々が古くから生活を始め、谷保天満宮や南養寺といった神社や寺院が建てられたのは、立川崖線や青柳崖線の崖下からの豊富な湧水を擁する市域の南の地域でした。そこには、今日においても美しい自然が残され、多くの人々の生活の跡、歴史や文化に接することができます。興味ある皆さんは自分の足で歩いてみられたらいかがでしょうか。必ずや新しい発見があると思います。

(飯塚記)

 

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●右タブの「キャンパスの四季」:先月掲載の「春のキャンパスに咲く野の草花」で同欄を更新しました。個々の花の写真はクリックすると拡大されます。

 

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